小手川 大助

小手川大助氏は、大蔵省入省後、大蔵省証券業務課長として、三洋証券、山一證券の整理を担当し、のちに金融監督庁の課長として長期信用銀行、日本債券信用銀行の公的管理を担い、日本政策投資銀行の再生ファンドの設立及び産業再生機構の設立を行うなど1990年代の後半から日本の金融危機の対応をしてきました。

また、日本の地位を5位から2位に押し上げた世界銀行の増資交渉、円ドル委員会、構造改革協議、WTOの金融サービス交渉、日米包括協議、OECDの移転価格税制ガイドラインの設定等の数多くの国際交渉を担当したほか、OECD租税委員会の副議長として、ブラックリストの設立に至ったOECDの「税の競争」委員会を設立しました。その他にも大蔵省の大臣官房、主計局(外務省、経済協力担当)、主税局、理財局、国際局の要職を歴任しています。

さらに、IMF日本代表理事としてリーマンショック以降の世界金融危機に対処し、特に、IMFの資金の増強のための新規借入取極め(NAB)の最終会合の議長を勤めて6000億ドルの資金増強の合意に導きました。 小手川氏は、ハーバード大学ビジネススクール、タマサート大学経済大学院、リークアンユービジネススクールなどで特別講義を行った実績を有しています。

小手川氏には、世界最高水準の国際経験並びに金融、事業再生及び企業経営を横断する卓越した実務能力を活かし、取締役会の一員としてフジテックの長期的・持続的成長に貢献していただくことを期待しております。 なお、小手川氏は日本語、英語に堪能なほか、ロシア語、ドイツ語にも精通しています。

プロフィール詳細

1975 年 4 月大蔵省(現財務省) 入省
1979 年 6 月スタンフォード大学大学院 経営学修士(MBA)
1996 年 6 月大蔵省(現財務省) 証券局業務課長
1998 年 6 月金融監督庁 監督総括課長
2003 年 7 月財務省 大臣官房審議官
2005 年 7 月同省 関東財務局長
2006 年 7 月同省 理財局次長
2007 年 7 月IMF 日本政府代表理事
2011 年 2 月一般財団法人キヤノングローバル戦略研究所 研究主幹
2011 年 5 月株式会社パルコ 社外取締役
2012 年 4 月株式会社ストリーム 社外監査役
2012 年 5 月株式会社セキド 社外取締役(現任)
2013 年 5 月いちごグループホールディングス株式会 社社外取締役
2018 年 4 月株式会社ストリーム 社外取締役(現任)
2019 年 1 月株式会社ツネイシホールディングス社外 取締役(現任)
2020 年 4 月大分県立芸術文化短期大学 理事長兼学長

小手川氏からのメッセージ

Message

スタンフォード大学ビジネススクールを卒業後、私は世界銀行の職員として、貧しい国を助けるための国際開発公社の資金集めを担当して史上最大の金額を集めたほか、日米円ドル委員会を担当して東京市場の自由化を行いました。OECDでは移転価格税制のガイドラインの設立やタックスヘイブンの活動を制限する委員会の設立を行いました。また、リーマンショック後の世界経済を救済するために6000億ドルのIMFへの新しい貸付の取決めを合意に導きました。

このような活動を通じ、私は世界中に信頼できる友人を得ることになりました。財務省や中央銀行関係者にとどまらず各国のビジネスリーダーにも友人が多く、フジテックの今後の海外事業の展開に貢献できるものと思います。このような関係を結ぶことができた理由は私が日本語、英語、ドイツ語、ロシア語等の多数の外国語に通じ、彼らの文化や発想を理解できたからです。

国際ルールを作ってきた私から見て、海外の市場で重大な法律違反を犯し市場から追放された人物が、大手を振ってガバナンスといった美辞麗句を振りかざして、会社経営の改善策を示すことなしに会社を乗っ取り、これまで70年の長きにわたり、従業員、経営陣そして顧客が汗水垂らして事業を拡げて蓄積してきた内部留保を、「株主還元」というスローガンの下に自らの利益にすることは看過できません。思い出されるのは、80年代の悪名高きグリーンメイラーの代表であるピケンズであり、50年代から60年代にかけての乗っ取り屋の横井英樹です。ヤクザに銃弾を撃ち込まれた横井英樹は乗っ取り後も当該企業を経営しましたが、最後はホテル火事により、33名の尊い命が失われました。村上世彰は時代の寵児となりましたが、彼が攻撃した企業が素晴らしい会社に変身したということはなく彼の資産が増えるだけの結果となりました。今ここでルールの欠缺を利用した彼らの行動を押しとどめなければ彼らが株式を大量保有する日本企業が次々に犠牲になり、あるいは企業の非上場化が進んで、国民の生活に悪影響を与えることになるでしょう。